南満州鉄道株式会社(英:The South Manchurian Railway Co.Ltd)とは、運輸省鉄道局の実質的な管理下にある日本の特殊会社(国策企業)。


満鉄のロゴ。登記社名は南満鉄道であるが、ロゴに記されているのは南満鉄道である。

概要

主に朝鮮、山東半島で鉄道・バス・路面電車・貨客船等の公共交通事業を運営するほか、日本本土の高速鉄道路線もその管轄下に置く。鉄道事業の軌間は1435mm(標準軌)である。交通事業の他に不動産業、デパートメント・ストアの運営、満州・朝鮮の炭鉱経営、旅館業などを展開するコングロマリット企業でもある。更に、国策企業であるが故の特徴として自前の鉄道警備隊(使用する銃器は帝国陸軍の払い下げ)と諜報部(調査部と呼称する)すら保有する。大東亜鉄道の歴史は日露戦争までさかのぼり、当時ロシアが運営していた東清鉄道の南支線を日本が権益として引き継ぎ運営を開始したことに端を発する。この南支線は哈爾浜から大連まで伸びる路線で、その後の南満州鉄道連京本線及び京浜本線である。満鉄は日本の満州権益を管理し、拡大する役割を持ち、かつてのイギリス東インド会社が手本とされた。満鉄は「鉄道附属地」として満州に多くの租界を持ち、鉄道警備隊を駐屯させて日本権益の中心地とした。1934年に運行を開始した満鉄特急「あじあ号」(初代)にみられる通り日本の技術力を諸外国に示す場でもあり、その経営は対外政策の上で最重視とされ1930年代後半にはその資本金は日本の国家予算の半分にまで迫った。1940年から始まった鉄道省の行政整理で朝鮮総督府の所管した標準軌鉄道を移譲され、その後1945年に東海道新幹線、1953年に山陽新幹線が開業するとこれも移譲され、いよいよ一国家レベルにまでなったその権勢は「満鉄王国」とまで称された。しかし、政府の対清関係の見直しの煽りを受け満州資本から完全に撤退することになってしまい、1956年3月31日を以て満州の鉄道利権をほぼすべて清国鉄路総公司に移譲した。その後もなお炭鉱や第三次産業の利権を保持し続け、その大きな影響力は変わっていない。
1968年9月の日清会談の結果、1969年4月から南満州鉄道の利権を取り戻すこととなった。実に13年ぶりに満州の鉄路が日本の手に渡ったことになる。

保有路線

満州

  • 連京線?(大連—新京)
  • 京浜線?(新京—哈爾浜)
  • 浜洲線?(哈爾浜—満州里)
  • 安奉線?(安東—蘇家屯)
  • 奉山線?(奉天—山海関)
  • 関東線?(安東—金州)
  • 京図線?(新京—図們)

本土

  • 東海道新幹線(東京〜新大阪)
1939年に議会を通過した「弾丸列車計画」に基づき1940年に着工、1945年に完成し開通。途中の新丹那トンネルや関ヶ原越えなど、工事の難航した区間もあったが戦時下ということもあり関門トンネルと並ぶ二大輸送力増強事業として突貫工事で完成された。開通後は特急「あじあ号」で使用されていたパシナ型蒸気機関車の牽引で最高速度140km/hを記録する高速運転を行い、表定速度は100km/hを超えた。東京〜新大阪間の所要時間は従来の特急「燕」の9時間から5時間10分へと大幅に短縮され、その後1952年、最高速度170km/hという蒸気機関車の営業運転速度としては驚異的な数値を叩き出すパシク型を導入することによって所要時間は3時間55分となった。
  • 山陽新幹線(新大阪〜博多、新下関〜下関)
東海道新幹線の開通した1945年から延伸区間として工事が始まり、1953年に新大阪〜下関が開業。当初からパシク型の牽引で運行され、東京〜下関間は最速7時間45分で結ばれた。1955年には延伸工事が開始され、下関駅手前に新下関駅を設け、そこで路線を分岐させて1957年には博多まで乗り入れた。列車は新下関駅で分割・併合されるようになり、新下関〜下関間はディーゼル機関車の推進運転に変更された。
  • 長崎新幹線(博多〜長崎、新唐津〜佐世保埠頭)
大陸連絡の一環として建設された。1958年には山陽新幹線の長崎延伸が承認され、起工。博多からは唐津・武雄・諫早を経由して長崎に至った。1963年に開業。また、新唐津から分岐して佐世保を目指す貨物支線も建設され、こちらは1965年に開業した。本路線は軍事的側面が強かったが、日本新幹線史最初の貨物専用線となった。1964年には東海道・山陽・長崎新幹線の全線電化が完成。新しく設計された最高速度210/hに達する0系新幹線電車が運行を開始し、東京〜下関・長崎間をそれぞれ6時間30分と7時間50分で結んだ。
  • 東北新幹線(上野〜青森)
東海道新幹線の開業当時から、各地方から新幹線建設の要望は高まっていた。1946年、「広軌高速鉄道敷設法」が議会を通過し、この流れは現実的なものとなった。地方高速鉄道として、まず北海道と樺太の発展により輸送需要が逼迫していた東北本線の線増として高速鉄道を敷設することが決定され、1948年に着工。1955年には上野〜盛岡間までが暫定開業し、東海道新幹線へのパシク型導入で余剰となっていたパシナ型の牽引により営業運転が始まった。所要時間は4時間55分であった。盛岡以北のルート選定は紛糾し、最終的には所要時間を短縮する目的から大館・弘前を経由するルートに決まった。八幡平付近の山地を貫くトンネル工事は難航したが、1964年に上野〜青森間が全通。同時に0系新幹線電車の寒冷地仕様が投入され、上野〜青森は4時間25分で結ばれることとなった。
  • 上信新幹線(大宮〜長野)
この頃になると交通インフラはほぼ完成の域に達していたが、それでも輸送障害となる隘路は存在した。青函航路、関釜航路などの連絡船もそうであるが、陸上に於いても瀬野八越え、布原峠、板谷峠など幹線の山越えの区間が輸送力増強のネックとなっていた。その一つである信越本線の碓氷峠は、歯車とラックレールを用いたアプト式により最大66.7‰という国鉄最急勾配を克服していたが、徐々に限界が見えてきた。そこで先述の広軌高速鉄道敷設法に於いて、東北新幹線とともに計画され、1948年に着工されたのがこの上信新幹線である。要となる碓氷峠区間は予想通り工事が難航し、10年以上の歳月をかけて1960年に大宮〜長野間が開通した。途中の碓氷峠はパシナ型の想定しない急勾配であるため当初から電化され、140km/hで標準軌を運行可能なデキニ型電気機関車が導入された。1962年には電化されていたことから早くも0系新幹線電車が導入され、デキニ型を淘汰した。

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