中央アジア連邦(土:Orta Asya Federasyonu)とは、中央アジアにその版図を持ち、柔軟な政治体制を自負する連邦国家である。主に中ア連と略される。
トルキスタン=ペルシア二重連邦の構成国家であり、その運営を担当している。
連邦首都アルマトイ*1(Almatı)
国家元首連邦大統領 Fosfor Fıstığı(フォスフォル=フィストィグィ)
国家方針中道左派/自由主義・資本主義・国際協調
総人口約1850万人
工業力中規模
↓中央アジア連邦の国旗(1940年3月31日以降)


担当者の国家運営ポリシー

  • 民族が分断されることなく自由を享受できるような国にする。
  • 基本世界線の勢力圏をぶっこわす!英露間の勢力境界線を帳消しにして、中央ユーラシア本来の自由さを取り戻す。
  • アラル海を守る

概要・略歴

1905年以降、日露戦争でのロシア帝国の敗北を機に、西トルキスタン地方と東トルキスタン地方で別個に起きた民族自決の理念に基づく革命運動が発生した。
両者は合流し、東西トルキスタンの統一を目指して革命を成し遂げ、1921年2月、ついに独立を果たした。
建国当初は平和主義を掲げ、民族の平和と世界平和の両立を模索していたが、1930年代になってトルコ・ペルシアの両地域において社会主義政権が成立したのを受けて方針を転換し、建国時の民族主義的革命を社会主義革命だと捉え直す形でイデオロギーをすり替えると言う荒技を成し遂げた。
これは民族主義的革命の指導者の後継者であり社会主義時代の中ア連の初代書記長でもあるアブドゥラウフ・フィトラトが過去に他国で社会主義政権下での国家運営を経験した時の知識などを生かしたものであり、この革新的な転換は中ア連の柔軟な内政運営を象徴するものであると解釈できよう。
1930年代中頃、トルコ・ペルシアとの間でバクー条約機構を立ち上げた。

1939年秋、国際情勢の複雑化などによる中ア連への大戦の影響を少しでも軽減するべく(中の人の低浮上化によるものだが)、社会主義体制を緩やかに廃止して中道民主資本主義国に戻そうという計画が承認された。「中ア連ボーナスチェスト化計画」と称し、すべての国に開かれた資源地帯をなすことを目標とするようだ。

1940年2月末、この計画は実行を開始され、また労働者中央委員会において国家方針の変更が正式に決定された。これを機に我が国は「世界の資源庫」として歩み出すこととなる。
また同時に労働者中央委員会の解散が決まり、中ア連連邦議会が復活した。上下院から成り、定員は約260人である。
この前後で次期の大統領が選出された。あらゆる方法を用いて全ての階層から指示を取り付け圧勝したその男の名はフォスフォル=フィストィグィと言う。彼は外交方針の大胆な転換を行うが、この性急な改革がのちに中ア連の首を締めることとなるのであった。

1940年3月末、大日本帝国とともに中華ソビエト共和国に宣戦を布告した。この時期から中ア連は日本への接近をさらに強めていくこととなる。
この戦争によって我が国は寧夏回族自治区の保護権を獲得した。

1940年の中ごろ、ペルシア内戦を端緒とする周辺諸国のペルシア分割が発生。中ア連政府は当初これを静観し・中立の立場をとっていたが、安全保障に関する懸念になりかねないとしてイラン方面・アフガン方面に派兵。
一時イラン北東部とアフガニスタン北半を実効支配したが、対面するインド共和国に敵対心がないことを知り撤退、最終的にイラン・アフガンのトルクメン人居住地のみを併合し、その他の地域を全てインド共和国に割譲した。割譲した領土にはタジキスタン東部のバダフシャン地方も含まれている。
その後、残りのタジク四郡を「タジク共和国」として中ア連に再編入したが、政府はこれを中ア連とは別個の国として扱う方針を打ち立て、議会でも可決された。対外的には「タジク共和国」は中ア連の一部である、としている。現世における中国と台湾との関係にも似ている。

その後1940年10月ごろに種々の協議を行い、カイバル峠とカシミール地方を囲む4カ国の包括的同盟、カイバル同盟が成立した。これを以てペルシア内戦に端を発したペルシア問題はひとまず収集がついたと言えるだろう。

そして1940年12月、我が国の情報統制部門が大戦犯行為を働くこととなった。事もあろうに我が国の外務省がオスマン民主国に対して機密情報を開示してしまったのである。オスマン民主国は抗議のためにこれを全国際社会に公開。連合諸国の安全保障を脅かすのみならず、他の仮想敵国に対しても拭いきれない禍根を残すこととなった。国内では当然不満も広がったが、民衆の間ではまだオスマン民主国内のトルコ人に対する同胞意識も根強く、大統領は支持率低下を免れた。つくづく幸運な男である。

1941年に始まった第一次世界大戦?には、自由主義連合?の一員として参戦。正規軍を大きく動かすことこそなかったものの、西アジア地域で抑圧されている諸民族の解放を手伝い、オスマン民主共和国と敵対した。
1945年、第一次世界大戦?が終結すると、かねてから計画されていたペルシアとの連合が推し進められ、トルキスタン=ペルシア二重連邦が成立した。中ア連もその構成国家となった。

[これ以降の記述はトルキスタン=ペルシア二重連邦を参照してください。]

内政

地理

国土は、現実世界におけるロシア帝国領トルキスタンにあたる西トルキスタン地方と清朝領であった東トルキスタン地方に大別される。
なおペルシア連邦民主人民共和国に南タジクを譲渡している。
1941年現在の中ア連の版図は、現世におけるカザフスタン・ウズベキスタン・キルギス・トルクメニスタン・新疆ウイグル自治区・イラン北東部のトルクメン人居住地・アフガニスタン北部、そしてゴルノ=バダフシャン自治州を除くタジキスタンまで及んでいる。
1945年のトルキスタン=ペルシア二重連邦の成立に際し、アフガニスタン北部の大部分とタジキスタン全域はペルシア連邦民主共和国に返還された。

[これ以降の記述はトルキスタン=ペルシア二重連邦を参照してください。]

行政区分

中ア連は連邦国家であり、一等行政区として1特別市・6共和国を置く。
なおトルキスタン=ペルシア二重連邦の連合首都サマルカンドは中ア連の管轄ではない。
No.名称首都/中心都市該当する区画(現在の名称)
A.アルマトイ特別市*2アルマトイアルマトイ(カザフスタン)
1.カザフ共和国シュムケントカザフスタン及び
新疆ウイグル自治区北部
2.キルギス共和国ビシュケクキルギス
3.カラカルパク共和国ヌクスカラカルパクスタン
4.ウイグル共和国ウルムチ新疆ウイグル自治区南部
5.ウズベク共和国タシケントウズベキスタン
(カラカルパクスタン共和国を除く)
6.トルクメン共和国アシガバードトルクメニスタン及び
イラン・北アフガンの一部
トルキスタン=ペルシア二重連邦連合首都(中央アジア連邦管轄外)
S.サマルカンド特別市*3サマルカンドサマルカンド(ウズベキスタン)

人口

1930年頃の総人口、約1241万人の内訳は以下の通り。現在も人口は漸増している。
なおこの人口統計ではテュルク系以外の民族が計上されていないが、彼らに権利がないというわけではない。むしろ彼らには特権が与えられている。
西トルキスタン
ウズベク人4,845,140
カザフ人3,100,949
キルギス人884,615
トルクメン人812,404
カラカルパク人185,766
ウイグル人97,448
東トルキスタン
ウイグル人他2,491,000
合計
12,417,322

言語・文化

住民のほとんどはテュルク系言語を話すトルコ系民族であり、全体としては「テュルク」を自称する。文化的な共通点も多い。
中ア連の連邦公用語はトルコ語である。主に民族の垣根を超えた交流や、高等教育などで使用される。
各共和国の公用語としてはウズベク語・カザフ語・ウイグル語・キルギス語・トルクメン語・カラカルパク語などがある。
国民の大半はスンナ派イスラム教徒である。中ア連は元々宗教を弾圧しているわけではなかったが、旧体制下ではイスラム的な事物が一部自粛されたのは事実である。この暗黙の了解的な自粛も、体制変更により正式に終了した。

トルコ系民族の他には、タジク人・モンゴル人・ロシア人・漢人などがいるが、このうちロシア人と漢人に関しては、任意での国外移住を認めている。残留する者は、タジク人などとは異なり特権は与えられず、一般と同じ待遇となる。初等教育をロシア語・中国語などで行うことは認められているが、国内の高等教育機関におけるトルコ系・イラン系言語以外を母語とする者への門は狭い。将来的に社会問題に発展する可能性があるとして一部では政策への反対意見も挙がっている。

外交

民主化以前

ペルシア連邦民主人民共和国およびオスマン社会主義人民共和国とは同盟関係。このうちペルシア連邦民主人民共和国とは国の成り立ちも似通っており、緊密な連携関係を取ることができている。
当初中ア連はトルコ系民族の保護を名目にアゼルバイジャン、なかんずくバクー油田の獲得を目指していたが、現在はカスピ海に面する社会主義諸国との連携を強めている。また西シベリア遠征計画があったが休止となった。(1945年、第一次世界大戦の終結を契機に誕生したトルキスタン=ペルシア二重連邦はアゼルバイジャンを領有しており、この宿願は叶ったと言えよう。)
バクー条約機構及び大亜細亜連合?に参加している。

民主化以降

日本への接近が本格化した。日本が中華ソビエトに宣戦した際には日本の側に立って宣戦布告を行った。
またこの頃に自由主義諸国との関係をさらに深めるが、ここで意図せず裏切り行為を働いてしまった。詳細は略歴に記載してある。
第一次世界大戦?には自由主義連合?の一員として参戦した。
[これ以降の記述はトルキスタン=ペルシア二重連邦を参照してください。]

軍事

名目上は陸海の二軍が存在する。

陸軍

徴兵制を採っており、訓練軍団おおまかに歩兵9万、騎兵4万から成る。機械化は途上である。
帝政ロシア時代、トルキスタンはイギリスとの勢力争いの舞台であったため軍備に関するノウハウは残っており、これをもとに軍備の強化を進めている。
歩兵装備は帝政ロシア時代のモシンとフェドロフを使用している。1920年代後半からの工業化政策の一環として大規模な生産が行われた。
(中の人があまり詳しくないので設定の確立には時間がかかりますがお許しください。)

海軍

現在は海軍力を有していないが、カスピ海貿易路の防衛のためにカスピ海沿岸に艦隊を配備する計画案が存在する。

国内外の諸問題

  • 対露関係
    • 中ア連はロシアから独立したのにもかかわらずロシア共和国との関係が一切設定されていない。一応同じ陣営に属しているが…。
  • カスピ海における防衛力の不足
    • 中ア連にとって最も重要ともいえるカスピ海北東油田だが、実はこれを守る海軍力が非常に貧弱である。現在は日本との技術提携を急いでいる。

外部リンク

管理者:ふぉらす(https://twitter.com/phosphorus2055T)

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