最終更新: mfroun1917 2022年03月13日(日) 17:57:54履歴
カルマル連合(ドイツ語:Kalmar Union)は北欧に存在する社会主義国家である。
マルクスの理論を忠実に継承し発展させた、正統派マルクス主義を国是としている。そのため現世におけるスターリン主義とは異なり、一党独裁ではなく複数政党制を堅持している。
また、ほぼ無血で社会主義革命を達成したため、暴力革命には断固反対である。
マルクスの理論を忠実に継承し発展させた、正統派マルクス主義を国是としている。そのため現世におけるスターリン主義とは異なり、一党独裁ではなく複数政党制を堅持している。
また、ほぼ無血で社会主義革命を達成したため、暴力革命には断固反対である。
首都 | カールセンシュタット |
大統領 | トーベ・マリカ・ヤンソン |
首相 | アルフレッド・ゼーンベルグ |
国家方針 | 人民共和制 社会主義 武装中立 |
総人口 | 6000万人 |
工業力 | 大規模 |
通貨 | ユーロ |
人民議会 | 与党:カルマル人民戦線(1050議席) 閣外与党:中道民主連合(80議席) 野党:地球革新同盟(70議席) |
1397年、デンマーク女王マルグレーテが、当時後継者のいなかったスウェーデン王に、自身の親族を付けることでカルマル同盟を結成。スウェーデンをデンマークの下で統治するが、1526年にスウェーデンで貴族家のグスタフ・ヴァーサによって反乱が発生する。
カルマル同盟側はハンザ同盟の支援を受けて抵抗、見事反乱を鎮圧する。その後は貴族の権限を縮小し、ユダヤ人を招聘して行政官に任命、全民族の融和を優先しながら国王主権を確立し、絶対王政期に入った。
カルマル同盟側はハンザ同盟の支援を受けて抵抗、見事反乱を鎮圧する。その後は貴族の権限を縮小し、ユダヤ人を招聘して行政官に任命、全民族の融和を優先しながら国王主権を確立し、絶対王政期に入った。
17世紀の三十年戦争では中立を維持し、新教側の亡命者を多数保護。その結果、科学技術や哲学、商業を中心に発展。農村と都市では文化が丸っ切り異なってしまう。
これを見兼ねた国王は、地方の地主を国王評議会議員に任命し、形式的ながら地主による選挙王政を認めて反乱を未然に防いだ。
しかしながら、これで不満を持ったのが都市の市民たち。当初は沈黙していたが、18世紀の啓蒙思想の流入、国王によるルソーの招聘などを経て、人権思想が市民の間に広まった。
その結果、地主特権の廃止・制限選挙権などを求めた暴動が首都カルマルで発生。これにマルメで活動していた、アメリカ独立に影響を受けた急進共和派が合流し、共和制を求める市民革命へと発展。
1802年、ついに国王は王族・地主の身体の安全と引き換えに退位し、共和派に権力を移譲した。
翌1803年には共和派議会が国民議会と改称してマルメに遷都し、カルマル共和国宣言を行った。当時内部抗争で荒廃していたヨーロッパ諸国に王党派を支援する能力はなく、また元国王自らが王党派の反乱に反対したこともあって、カルマル共和国は概ね列強からは承認された。
これを見兼ねた国王は、地方の地主を国王評議会議員に任命し、形式的ながら地主による選挙王政を認めて反乱を未然に防いだ。
しかしながら、これで不満を持ったのが都市の市民たち。当初は沈黙していたが、18世紀の啓蒙思想の流入、国王によるルソーの招聘などを経て、人権思想が市民の間に広まった。
その結果、地主特権の廃止・制限選挙権などを求めた暴動が首都カルマルで発生。これにマルメで活動していた、アメリカ独立に影響を受けた急進共和派が合流し、共和制を求める市民革命へと発展。
1802年、ついに国王は王族・地主の身体の安全と引き換えに退位し、共和派に権力を移譲した。
翌1803年には共和派議会が国民議会と改称してマルメに遷都し、カルマル共和国宣言を行った。当時内部抗争で荒廃していたヨーロッパ諸国に王党派を支援する能力はなく、また元国王自らが王党派の反乱に反対したこともあって、カルマル共和国は概ね列強からは承認された。
ブルジョワ共和国として大統領を元首としたカルマル共和国は、欧州列強の思想家や活動家、技術者の亡命者を多数受け入れ、その結果産業革命を比較的早く経験する。
そうして資本主義が発達すると、労働者の権利問題が発生するようになった。これに頭を悩ませた共和国政府は、プロイセン政府から国外追放処分を受けたマルクスを招聘し、助言を求めた。
マルクスは共和国政府には何一つ助言せず、社会主義活動家らに自らの思想を伝授した。その結果、社会主義者の暴動が多発するようになり、1862年、マルクスは国外追放された。
1882年には、同様に招聘されたエンゲルスも、マルクスの国外追放を解くように嘆願したため、国外追放された。暴動を抑え込もうと、共和国政府は社会主義者と妥協し、労働者と社会主義者の党として、カルマル社会民主労働党の結成を承認した。
カルマル社会民主労働党(SDLPK)は労働組合を結成して労働者の待遇改善に取り組むが、この路線にマルクス主義を信奉する党内左派が反発。
1903年にマルクス主義統一労働者党(MELP)を結成。ところがこの政党は政府によって非合法化されたため、1908年にカルマル統一派労働コミューン(ELKK)に改称。1909年の選挙で民主共和党(DRP)に次ぐ第二党に躍進した。
しかしながら、下層労働者には未だ選挙権が与えられなかったため、普通選挙権を求める運動が発生。ELKKの提案により、中学校卒業資格を持つ25歳以上の男女に選挙権が認められた。
だが下層労働者の大半は、初等教育すら満足に受けておらず、この決定は反感を持たれた。
1915年には選挙権問題で再分裂したSDLPKの中道派をELKKが吸収し、初等教育・前期中等教育の義務化、大学教育費の値下げなどを掲げて選挙を戦い、ELKKは議会第一党に躍進した。ELKKはSDLPKと連立与党を結成するが、これに王党派と右派共和派が反発。両者は結束して旧王家のグスタフ・フォン・オルデンブルグを大統領としてカルマル国民共和国を、コペンハーゲンを首都として結成。
カルマル共和国に宣戦布告して内戦が勃発するかに見えたが、民衆の支持がなく、大統領が早々に降伏してしまったため、無血吸収され、1917年、カルマル国民共和国は解散した。
王党派はほぼ全員がグリーンランドに追放され、オルデンブルグもニューファンドランド島に追放された。右派共和派は存続を許されたものの、彼らの政党だったカルマル国民党は非合法化された。
国内が安定するかに見えたが、国民共和国解散と前後してロシア革命が勃発。十月革命発生の報を聞いたことで、民衆が示威活動を起こし、マルクス主義者の革命運動が頻発したことで、国内の左派は結束。18歳以上の男女普通選挙権を1920年に承認し、1922年に労働者のストライキから第二次カルマル革命が勃発。革命軍は私営企業解体と農地の国有化を宣言。これに反発する自営農民の反乱を鎮圧し、1924年にカルマル革命政府が成立。
史上初となる、正統派マルクス主義に基づいた国家が誕生した。
そうして資本主義が発達すると、労働者の権利問題が発生するようになった。これに頭を悩ませた共和国政府は、プロイセン政府から国外追放処分を受けたマルクスを招聘し、助言を求めた。
マルクスは共和国政府には何一つ助言せず、社会主義活動家らに自らの思想を伝授した。その結果、社会主義者の暴動が多発するようになり、1862年、マルクスは国外追放された。
1882年には、同様に招聘されたエンゲルスも、マルクスの国外追放を解くように嘆願したため、国外追放された。暴動を抑え込もうと、共和国政府は社会主義者と妥協し、労働者と社会主義者の党として、カルマル社会民主労働党の結成を承認した。
カルマル社会民主労働党(SDLPK)は労働組合を結成して労働者の待遇改善に取り組むが、この路線にマルクス主義を信奉する党内左派が反発。
1903年にマルクス主義統一労働者党(MELP)を結成。ところがこの政党は政府によって非合法化されたため、1908年にカルマル統一派労働コミューン(ELKK)に改称。1909年の選挙で民主共和党(DRP)に次ぐ第二党に躍進した。
しかしながら、下層労働者には未だ選挙権が与えられなかったため、普通選挙権を求める運動が発生。ELKKの提案により、中学校卒業資格を持つ25歳以上の男女に選挙権が認められた。
だが下層労働者の大半は、初等教育すら満足に受けておらず、この決定は反感を持たれた。
1915年には選挙権問題で再分裂したSDLPKの中道派をELKKが吸収し、初等教育・前期中等教育の義務化、大学教育費の値下げなどを掲げて選挙を戦い、ELKKは議会第一党に躍進した。ELKKはSDLPKと連立与党を結成するが、これに王党派と右派共和派が反発。両者は結束して旧王家のグスタフ・フォン・オルデンブルグを大統領としてカルマル国民共和国を、コペンハーゲンを首都として結成。
カルマル共和国に宣戦布告して内戦が勃発するかに見えたが、民衆の支持がなく、大統領が早々に降伏してしまったため、無血吸収され、1917年、カルマル国民共和国は解散した。
王党派はほぼ全員がグリーンランドに追放され、オルデンブルグもニューファンドランド島に追放された。右派共和派は存続を許されたものの、彼らの政党だったカルマル国民党は非合法化された。
国内が安定するかに見えたが、国民共和国解散と前後してロシア革命が勃発。十月革命発生の報を聞いたことで、民衆が示威活動を起こし、マルクス主義者の革命運動が頻発したことで、国内の左派は結束。18歳以上の男女普通選挙権を1920年に承認し、1922年に労働者のストライキから第二次カルマル革命が勃発。革命軍は私営企業解体と農地の国有化を宣言。これに反発する自営農民の反乱を鎮圧し、1924年にカルマル革命政府が成立。
史上初となる、正統派マルクス主義に基づいた国家が誕生した。
成立した革命政府は翌1925年、カルマル・コミューンを成立させ、海外領土を含めた全ての領域を人口5万人毎のコミューンに区分した。30万人の非定住民は遊牧生活を送っているため、遊牧民コミューンを設置して自治を認めた。
政府改革がひと段落した1928年、カルマル・コミューンはカルマル連合と改称し、憲法制定と議会開設に向けて統治を開始した。
1929年、第一次五カ年計画により農地国有化が実施された。
1934年、第一次五カ年計画完了と同時に第二次五カ年計画始動。北海油田開発や原子力技術者の招聘による原子力発電機の開発、キルナ鉄山の開発などに重点が置かれ、1939年に予定通り完了した。
二度の五カ年計画成功を見た革命政権は、カルマル連合憲法を制定し、人民議会開設を決定した。公選によって議席数が確定。統一派コミューン(EK)(1925年にELKKから改称)が170議席を獲得し、105議席を獲得したSDLPKと連立した。DRPは75議席を獲得した。
翌1940年5月29日に第一回人民議会が開催され、即日閉会したものの、隣国ノヴゴロド公国との相互不可侵条約の締結や、トロツキーのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国亡命政府の承認などが決議された。
その結果、1940年6月1日には、ノヴゴロド公国との間で不可侵条約が締結され、カルマル連合はノヴゴロド公国の軍事通行権を得た。カルマル連合はカレリア地域を割譲したため、DRPから非難の声が相次いだが、EKとSDLPKはこれを黙殺した。1940年6月15日には、大中央帝政連合と相互友好条約を締結。ゲルマニア共産党(GKP)の亡命を受け入れ、EK、SDLPKとカルマル人民戦線を結成。
1940年7月1日にはコミンテルンを結成し、同8月1日には大帝国連盟とコミンテルンを陣営統合させて、パシャン条約機構を成立させた。
1941年2月、軍部が暴走してカールセン大統領を暗殺。後任にはオルデンブルグ副大統領が昇格して就任。
1945年、ロシア内戦にメンシェヴィキを支持して介入。
政府改革がひと段落した1928年、カルマル・コミューンはカルマル連合と改称し、憲法制定と議会開設に向けて統治を開始した。
1929年、第一次五カ年計画により農地国有化が実施された。
1934年、第一次五カ年計画完了と同時に第二次五カ年計画始動。北海油田開発や原子力技術者の招聘による原子力発電機の開発、キルナ鉄山の開発などに重点が置かれ、1939年に予定通り完了した。
二度の五カ年計画成功を見た革命政権は、カルマル連合憲法を制定し、人民議会開設を決定した。公選によって議席数が確定。統一派コミューン(EK)(1925年にELKKから改称)が170議席を獲得し、105議席を獲得したSDLPKと連立した。DRPは75議席を獲得した。
翌1940年5月29日に第一回人民議会が開催され、即日閉会したものの、隣国ノヴゴロド公国との相互不可侵条約の締結や、トロツキーのロシア・ソビエト連邦社会主義共和国亡命政府の承認などが決議された。
その結果、1940年6月1日には、ノヴゴロド公国との間で不可侵条約が締結され、カルマル連合はノヴゴロド公国の軍事通行権を得た。カルマル連合はカレリア地域を割譲したため、DRPから非難の声が相次いだが、EKとSDLPKはこれを黙殺した。1940年6月15日には、大中央帝政連合と相互友好条約を締結。ゲルマニア共産党(GKP)の亡命を受け入れ、EK、SDLPKとカルマル人民戦線を結成。
1940年7月1日にはコミンテルンを結成し、同8月1日には大帝国連盟とコミンテルンを陣営統合させて、パシャン条約機構を成立させた。
1941年2月、軍部が暴走してカールセン大統領を暗殺。後任にはオルデンブルグ副大統領が昇格して就任。
1945年、ロシア内戦にメンシェヴィキを支持して介入。
ロシア内戦と並行して行われた第一次世界大戦において、カルマル連合は飛躍的に領土を拡大した。コミンテルン加盟国を他のパシャン条約機構諸国と同じ目に合わせずに守り抜き、新たな土地に社会主義の理念を広げたのはまさに、カールセン同志とオルデンブルグ同志の武装中立路線の為せる技である。フランスの仲介でノヴゴロドとの国境線に非武装地帯を置くことを条件に、自由主義連合と講和し、パレスチナを領土として得ることができた。しかしオルデンブルグ同志は植民地政策など取らず、社会主義の友邦として独立を認めたのである。こうしてパレスチナ人民共和国とカルマル連合は統一国家組織であるユーラシア=レーテ連合を結成。新たな国家としての第一歩を踏み出したのだ。
パレスチナ人民レーテ共和国と国家連合を組んだカルマルでは、国名をユーラシア=レーテ連合とし、ロシア内戦(1945〜)に介入した。ロシア内戦ではメンシェヴィキ・エスエルの連合政府たる全ロシア=レーテ連邦を支援。全ロシア=レーテのユーラシア=レーテ連合加入を承認し、国名をユーラシア連邦と改称。カルマル連合はユーラシア連邦の主要構成国となった。
ロシア内戦で全ロシア=レーテ連邦の加入を承認したユーラシア連邦は、その後の講和条約でウクライナやルーマニア・チェコスロヴァキア・ハンガリーの領域を承認させた。メンシェヴィキ議長のヴェーラ・ザスーリチ連邦大統領はこれに自信を持ち、兼ねてからの懸案だった「世界友好橋建設計画」に着手。バルト横断友好記念大橋や、カールセン記念大橋の建設に成功した。全露評議会政府とカルマル政府との間のバルトを輸送拠点として制圧する案が、軍部の提案により実行されたが、自由主義連合の参戦を招き、祖国防衛戦争が始まった。黒海横断鉄道道路併用橋「フォスフォル友好記念大橋」の建設計画が稼働していたが、テュルク=ペルシア二重連邦の原爆投下によって崩壊、戦時へと突入した。
管理人の多忙につき、1949〜1959まで10年間の停滞期に突入した。大西洋横断鉄道道路併用橋「カール・マルクス記念国際友好大橋」の建設は順調に進み、ノルウェーとフェロー諸島間、およびアイスランドとグリーンランド間の工事が完成した。
1959年2月16日に行われた人民議会選挙では、与党のカルマル人民戦線が圧勝した。合法化されたカルマル国民党も健闘したものの、議会第3党にとどまることとなった。与党内部においては、統一派コミューン(EK)が議席を伸ばし、カルマル社会民主労働党(SDLPK)は大きく議席を減らした。
1969年12月、統一派コミューンと遊牧民自治コミューンは合併し、カルマル統一共産党を結成した。カルマル社会民主労働党は存続するものの、左派及び中間派が統一共産党に合流し、組織は弱小のものとなり、共産党の衛星政党へと転落した。
1970年6月、モンテーニュ大統領は「社会主義近代化が第三段階まで到達し、国有・計画経済を脱するときが来た。社会主義現代化による人民主体の経済制度を導入する。」と演説し、協同組合や労働者評議会を経営主体とする企業の確立など、経済制度改革を開始した。又、ルーテル教会やプロテスタント諸派、フィンランド正教会との和解を進め、キリスト教民主党の結成を容認した。
社会主義現代化は計画経済で停滞していた生産性を跳ね上げ、高級嗜好品の供給ペースも回復したため、人民戦線の人気は上昇。1971年の第4回人民議会選挙ではカルマル統一共産党が大躍進して660議席を獲得し、連立を組むカルマル人民戦線の2党と合わせて715議席を獲得した。
社会主義現代化は計画経済で停滞していた生産性を跳ね上げ、高級嗜好品の供給ペースも回復したため、人民戦線の人気は上昇。1971年の第4回人民議会選挙ではカルマル統一共産党が大躍進して660議席を獲得し、連立を組むカルマル人民戦線の2党と合わせて715議席を獲得した。
カルマル連合は社会主義国家で、人民共和制を採用している。
全人民を5万人毎にコミューンに振り分けるコミューン連合制を取っている。また十月革命で敗れたトロツキー派や各国からのユダヤ人や亡命者を積極的に受け入れており、人民の権利はしっかりと保障されている。
元首は大統領である。
全人民を5万人毎にコミューンに振り分けるコミューン連合制を取っている。また十月革命で敗れたトロツキー派や各国からのユダヤ人や亡命者を積極的に受け入れており、人民の権利はしっかりと保障されている。
元首は大統領である。
カルマル連合の国家元首。人民の直接選挙によって選出される。
1971年の憲法改正で副大統領職が廃止されて首相職が復活した。
1971年の憲法改正で副大統領職が廃止されて首相職が復活した。
第代 | 氏名 | 在任期間 | 所属政党 | 備考 |
革命評議会議長 | ||||
---|---|---|---|---|
初代 | グスタフ・エミール・カールセン | 1917年2月23日〜1924年1月31日 | カルマル社会民主労働党統一コミューン派(SDLPK-EK) | 革命家。人民政府創建功労者。1885年生。 |
2代 | カザリン・テレジア・カールセン・ツー・ヴァーサ | 1924年1月31日〜1924年2月24日 | カルマル社会民主労働党統一コミューン派 | 人民政府創建功労者の妻。1887年生。 |
連合代議員大会常任委員長 | ||||
初代 | グスタフ・エミール・カールセン | 1924年2月25日〜1940年7月28日 | 統一派コミューン(EK) | 革命功労者。建国功労者。 |
連合大統領 | ||||
初代 | グスタフ・エミール・カールセン | 1940年7月28日〜1940年12月28日 | 統一派コミューン | 革命功労者。建国功労者。 |
2代 | グスタフ・エミール・カールセン | 1940年12月28日〜1941年2月25日 | 統一派コミューン | 軍事クーデターで暗殺される。 |
代行 | ニーナ・クシュマー | 1941年2月25日〜2月27日 | カルマル社会民主労働党(SDLPK) | 副大統領が大統領代行を兼務。 |
3代 | マルグレーテ・フォン・オルデンブルグ | 1941年2月28日〜1946年2月28日 | 統一派コミューン | *1 |
4代 | マルグレーテ・フォン・オルデンブルグ | 1946年3月1日〜1951年3月1日 | 統一派コミューン | 同上。 |
5代 | ヘルマン・アウグスト・フォン・オルデンブルグ | 1951年3月1日〜1956年3月1日 | 統一派コミューン | *2 |
代行 | ニーナ・クシュマー | 1956年11月7日〜1959年3月5日 | カルマル社会民主労働党 | またもやこの人。1905年生まれの中堅政治家。外務人民委員などを歴任。 |
6代 | ニーナ・クシュマー | 1959年3月6日〜1964年3月7日 | カルマル社会民主労働党 | 人民戦線の候補として擁立され、当選。 |
代行 | マリア・アーデルベルト・カールセン・ツー・ヴァーサ | 1964年3月7日〜1964年3月12日 | 統一派コミューン | 人民政府創建功労者の長女。 |
7代 | ゲオルク・フリードリヒ・マリア・アウグスト・フランツ・フォン・ゲーア・ツー・ヘルスト | 1964年3月12日〜1966年11月29日 | 統一派コミューン | 革命派貴族*3。リベリア外遊中に爆弾テロで死亡。1915年生まれの革命世代。 |
代行 | クララ・ド・モンテーニュ | 1966年11月30日〜1966年12月30日 | 統一派コミューン→統一共産党 | ゲーア・ツー・ヘルスト政権の副大統領。1926年生まれの革命後世代。 |
8代 | クララ・ド・モンテーニュ | 1966年12月30日〜1972年2月7日 | 統一共産党 | 自由主義貴族の名門、モンテーニュ旧伯爵家*410代目当主。 |
代行 | クララ・ド・モンテーニュ | 1972年2月8日〜1972年2月22日 | 統一共産党 | 国土非常事態につき、選挙延期。 |
9代 | トーベ・マリカ・ヤンソン | 1972年2月22日〜 | 社会民主労働党 | ムーミンの作者で、人民芸術家。スウェーデン系フィンランド人。 |
カルマル連合の行政府。大統領の指名を受け、人民議会において選出される。行政権を有し、集団で人民議会と大統領に対して責任を負う。人民議会で委員会不信任決議案が可決された場合、大統領の同意を得て人民議会の解散を行う権限を持つ。
1971年現在は以下の人民委員会が存在する。
1971年現在は以下の人民委員会が存在する。
委員会名 | 人民委員(他国の大臣に相当) | 政党 | 担当業務 |
首相 | アルフレッド・ゼーンベルグ | IKA | 行政府の長 |
副首相兼責任書記 | ビョーン・エールズンド | KPK | 史実日本の官房長官と同等 |
内務人民委員会 | グスタフ・アールヴ人民委員 | KPK | 警察権の行使 |
外務人民委員会 | ラック・キタンネン人民委員 | KPK | 外交や貿易、条約の締結など |
国防人民委員会 | エルンスト・フォン・フリーデライツ人民委員 | KPK | 軍事行政を司る |
防衛産業人民委員会 | アレクサンドル・ヴクレヴィチ人民委員 | SDLPK | 軍需産業の生産など |
鉄道人民委員会 | アレクサンドラ・ヴィートヴカ人民委員 | KPK | 国営鉄道の管理 |
経済人民委員会 | スタニスラフ・コモントヴィチ人民委員 | SDLPK | 経済政策など |
司法人民委員会 | エレーナ・ルペン人民委員 | KPK | 検察業務など |
カルマル連合の立法府はカルマル連合議会と呼ばれ、人民議会のみの一院制である。
人民議会は、法律の制定、憲法の改正、人民委員の選出、各種立法権を担う組織である。定数は人口5万人毎に1議席のため、人口増加/減少に応じて変化する。
現在の総人口は6000万人のため、総議席数は1200議席となる。
厳正拘束名簿式比例代表制で選出され、任期は4年。人民委員会議による解散あり。
第5回人民議会選挙の結果。
人口増加により、総議席数が800から1200になった。
選挙後に統一共産党と社会民主労働党が統合し、「統一労働人民進歩党」を結成。国民党、国民同盟71、自由主義ブロックが非合法化された。
現在の総人口は6000万人のため、総議席数は1200議席となる。
厳正拘束名簿式比例代表制で選出され、任期は4年。人民委員会議による解散あり。
第5回人民議会選挙の結果。
人口増加により、総議席数が800から1200になった。
選挙後に統一共産党と社会民主労働党が統合し、「統一労働人民進歩党」を結成。国民党、国民同盟71、自由主義ブロックが非合法化された。
議会内勢力 | 政党 | 略称 | 議席数 | 前回比 |
連立与党会派 | カルマル人民戦線 | KBF | 1050 | +335 |
与党 | カルマル統一共産党 | KPK | 870 | +210 |
与党 | カルマル社会民主労働党 | SDLPK | 80 | +50 |
与党 | 国際共産主義者同盟 | IKA | 100 | +75 |
閣外与党会派 | 中道民主連合 | CDU | 75 | ±0 |
閣外協力 | 民主共和党 | DRP | 45 | -25 |
閣外協力 | キリスト教民主党 | KDP | 30 | +25 |
野党連合会派 | 右派同盟 | RU | 5 | -5 |
野党 | カルマル国民党 | NPK | 0 | -4 |
野党 | 国民同盟71 | NA-71 | 2 | -2 |
野党 | 自由主義ブロック-共闘リスト | LB-BL | 3 | +1 |
野党 | 地球革新同盟 | RAA | 70 | 新党 |
カルマル連合では政党の設立は自由である。また、他の社会主義国とは異なり、複数政党制が堅持されている。
以下に政党の一覧を記す。
非合法
以下に政党の一覧を記す。
政党名 | 略称 | 党首 | 議会勢力 | 与/野党 | 主義 | 議席数 |
カルマル統一労働人民進歩党 | ULPPK | トーベ・マリカ・ヤンソン議長 | カルマル人民戦線 | 与党 | マルクス主義、プロレタリア民主主義 | 950議席 |
国際共産主義者同盟 | IKA | アルフレッド・ゼーンベルグ議長 | カルマル人民戦線 | 与党 | 左翼、トロツキズム | 100議席 |
民主共和党 | DRP | ハンス・グリュックス代表 | 中道民主連合 | 閣外与党 | 中道左派、共和派左派 | 50議席 |
キリスト教民主党 | KDP | マルグレーテ・ドロテア・エイゼンシャフト党首 | 中道民主連合 | 閣外与党 | 中道左派〜中道、キリスト教民主主義、人民宗教 | 30議席 |
地球革新同盟 | RAA | ルドルフ・フォン・ゴールドシュタイン議長 | なし | 野党 | 左翼、哲人政治、選民思想、超国家主義、マルクス・レーニン主義 | 70議席 |
非合法
カルマル国民党 | NPK | アウグスト・フォン・マンネルヘイム総統 | 右派同盟 | 野党 | 右翼、ブルジョワ共和制回帰 | 結成禁止。 |
国民同盟71 | NA-71 | ウィルヘルム・フォン・ホーエンシュタウフェン代表 | 右派同盟 | 野党 | 急進右派、ゲルマン民族主義、国家主義 | 結成禁止。 |
自由主義ブロック-共闘リスト | LB-BL | ビリー・フリードマン代表幹事 | 右派同盟 | 野党 | 新自由主義、市場原理主義 | 結成禁止。 |
1940年現在、第三次五カ年計画に基づいて、原子力発電や北海油田開発などに重点を置いて科学技術向上を目指す政策を実施している。
1945年から核実験、戦略化学兵器の実験を行っている。また、高福祉国家を目指し、医療用大麻の合法化や結核の完治薬、コレラの撲滅などにも注力している。
1947年から海上横断型鉄道道路併用橋の建設ラッシュが始まり、1959年現在も継続中である。
1969年、再び細菌兵器開発に注力。
1945年から核実験、戦略化学兵器の実験を行っている。また、高福祉国家を目指し、医療用大麻の合法化や結核の完治薬、コレラの撲滅などにも注力している。
1947年から海上横断型鉄道道路併用橋の建設ラッシュが始まり、1959年現在も継続中である。
1969年、再び細菌兵器開発に注力。
十月革命に敗北したトロツキー政権を保護しており、トロツキー率いるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国をロシア唯一の合法政府として承認している。(ロシア共和国は承認していない。)
また、隣国ノヴゴロド公国と不可侵条約を結んでおり、同国への軍事通行権を有している。
他、神聖ゲルマニア・フランク帝国(大中央帝政連合)との間に友好条約たるワルシャワ条約、オスマン民主国(旧オスマン社会主義人民共和国)との間に同盟を締結している。1940年8月27日、トロツキー暗殺に伴って、ロシア共和国を国家承認。パシャン条約機構、コミンテルンに加盟している。
大麻合法化や大麻栽培の観点から、バルト連合公国との友好関係を築いている。
黒海沿岸部の友邦獲得により、テュルク二重連邦やフランス=コミューンとも友好関係を築いている。
と思った矢先、テュルク側の核爆弾投下により関係は冷却した。
1969年現在は国交を回復した大日本帝国連邦や、ノヴゴロド公国などとの関係に注力している。
また、隣国ノヴゴロド公国と不可侵条約を結んでおり、同国への軍事通行権を有している。
他、神聖ゲルマニア・フランク帝国(大中央帝政連合)との間に友好条約たるワルシャワ条約、オスマン民主国(旧オスマン社会主義人民共和国)との間に同盟を締結している。1940年8月27日、トロツキー暗殺に伴って、ロシア共和国を国家承認。パシャン条約機構、コミンテルンに加盟している。
大麻合法化や大麻栽培の観点から、バルト連合公国との友好関係を築いている。
黒海沿岸部の友邦獲得により、テュルク二重連邦やフランス=コミューンとも友好関係を築いている。
と思った矢先、テュルク側の核爆弾投下により関係は冷却した。
1969年現在は国交を回復した大日本帝国連邦や、ノヴゴロド公国などとの関係に注力している。
コミンテルン諸国の残存諸国は、1969年現在ユーラシア連邦に加盟しており、実態として存続はしていない。
がしかし、各国共産党の司令塔の役割を果たし、共産党非合法の一部国家に対する新政府を存置するコミンテルン本部は、ユーラシア連邦にとって良き相談相手となっている。
1971年になって共和制国家や社会主義国家が増加したため加盟国も増加した。
ユーラシア連邦大統領が提唱した世界共和国連合陣営に人民共和制国家の代表組織として加盟して以来、世界共和国連合の中でも主導的役割を果たしている。
がしかし、各国共産党の司令塔の役割を果たし、共産党非合法の一部国家に対する新政府を存置するコミンテルン本部は、ユーラシア連邦にとって良き相談相手となっている。
1971年になって共和制国家や社会主義国家が増加したため加盟国も増加した。
ユーラシア連邦大統領が提唱した世界共和国連合陣営に人民共和制国家の代表組織として加盟して以来、世界共和国連合の中でも主導的役割を果たしている。
人口5万人ごとにコミューンが1つずつ割り振られる、世界的にも特異な行政区分となっている。スカンディナヴィア半島北部とグリーンランドの大部分は、合わせて人口約30万人の遊牧民自治コミューンとなっている。遊牧民に区域内自治を承認しつつ、定住政策を推進している。自治政府の役人は全て、定住化に積極的だった元遊牧民と、スオミ人で構成されている。
カルマル連合 | |||
---|---|---|---|
略称 | 区分 | 首府 | 史実の地域 |
RK. | 連合首都 | カールセンシュタット*5 | カルマル市周縁の郊外地区 |
SKU. | スカンディナヴィア・コミューン連邦 | コペンハーゲン特別市 | 北欧 |
AKU. | 大西洋コミューン連邦 | レイキャビク特別市 | アイスランド、グリーンランド、ニューファンドランド |
NF. | 北米自治連邦 | クシュマーシュタット特別市 | ニューファンドランド島 |
スカンディナヴィア・コミューン連邦 | |||
略称 | 区分 | 首府 | 史実の地域 |
KH. | コペンハーゲン特別市*6 | コペンハーゲン | コペンハーゲン |
DR. | デーン・コミューン共和国 | マルクスシュタット*7 | デンマーク本土 |
SR. | スヴェア・コミューン共和国 | ストックホルム | サーミ地域を除くスウェーデン |
RPR. | ラップ・コミューン共和国 | ロヴァニエミ | ラップランド |
FR. | フィン・コミューン共和国 | ヘルシンキ | ラップランド除くフィンランド |
AL. | オーランド・コミューン共和国 | マリエハムン | オーランド諸島 |
北大西洋コミューン連邦 | |||
略称 | 区分 | 首府 | 史実の地域 |
RV. | レイキャビク特別市*8 | レイキャビク | レイキャビク |
IL. | アイスランド・コミューン共和国 | ケプラヴィーク | アイスランド島 |
GL. | グリーンランド・コミューン共和国 | ヌーク | グリーンランド島 |
FL. | フェロー諸島・コミューン共和国 | トースハウン | フェロー諸島 |
北米自治連邦(共和国とほぼ同等の権限を持つ) | |||
略称 | 区分 | 首府 | 史実の地域 |
KS. | クシュマーシュタット特別市 | クシュマーシュタット*9 | セント・ジョンズ |
NF. | ニューファンドランド共和国 | トレーズブルク*10 | ニューファンドランド島 |
国民の大半がゲルマン系コーカソイドだが、歴史的に多くの難民を受け入れているため、多様性を重んじる文化が根付いている。デンマーク語と英語並びにドイツ語が公用語とされている。
以下、民族一覧並びに言語話者数、男女比、老年及び若年人口の割合、宗教別人口などを記す。
以下、民族一覧並びに言語話者数、男女比、老年及び若年人口の割合、宗教別人口などを記す。
民族名 | 人口 | 居住地域 | 比率 | 使用言語 | 備考 |
デーン人 | 200万人 | 全土 | 11% | デンマーク語,英語,エスペラント | カルマル同盟期から政治を牽引してきた民族。 |
スウェン人 | 800万人 | スカンディナヴィア全域 | 45% | スウェーデン語,英語 | 国民の大半を占める民族。フィンランド開拓とニューファンドランド発見を行った。 |
ノルゲ人 | 100万人 | スカンディナヴィア西部 | 5% | デンマーク語,ノルウェー語 | デーン人とほぼ同質。素朴な漁民が多い。 |
サーミ人 | 25万人 | スカンディナヴィア北部 | 1.25% | サーミ語,フィンランド語 | フィン系の遊牧民。定住者は少ない。 |
フィン人(スオミ人) | 550万人 | フィンランド | 28% | フィンランド語,デンマーク語,英語 | アジア系だがコーカソイド人種。素朴で、男女同権思想が根強い。 |
カラーリット | 5万人 | グリーンランド | 0.25% | グリーンランド語,デンマーク語,英語 | 氷の民。海豹などを狩って生活している。遊牧民だったが定住化に応じた。 |
ユダヤ人 | 150万人 | 全土 | 7.5% | ヘブライ語,イディッシュ語,デンマーク語,英語 | 離散の民。古代ローマに祖国を滅ぼされて以降、世界中に散らばっていたが、ヨーロッパで大規模迫害を受けたため、安住の地を探していた。そこに目をつけたカルマル同盟期の国王グスタフ5世が国内に招致したことをきっかけに、移住者が増加した。 |
その他 | 50万人 | 首都近郊及びニューファンドランド | 2.5% | デンマーク語を解する | 政治亡命者を指す。出身国は多様で、君主の擁立争いの敗者から共和派、共産主義者、宗教的少数派まで様々。 |
言語名 | 総話者数 | 人口比 | 地域 | 公用語 |
デンマーク語 | 3000万人 | 100% | 全土 | ○ |
スウェーデン語 | 1500万人 | 50% | スウェーデン | × |
フィンランド語 | 300万人程度 | -% | フィンランド | × |
サーミ語 | 25万人 | -% | 遊牧民自治コミューン | ○ |
グリーンランド語 | 5万人 | -% | グリーンランド | 遊牧民自治コミューンにおいてのみ○ |
英語 | 1200万人 | 66% | 全土 | ○ |
ヘブライ語 | ほぼ0人 | 0% | 首都近郊 | × |
ドイツ語 | 25万人 | -% | 首都近郊 | ○ |
イディッシュ語 | 150万人 | -% | 首都近郊 | × |
地域 | 男性人口 | 男性人口割合 | 女性人口 | 女性人口割合 | 全人口 |
デンマーク | 100万人 | 50% | 100万人 | 50% | 200万人 |
スウェーデン | 700万人 | 45% | 800万人 | 55% | 1500万人 |
地域 | 老年人口 | 老年人口割合 | 若年人口 | 若年人口割合 | 全人口 |
地域 | 宗教 | 信仰者割合 | 無神論者 | 無神論者割合 | 無宗教 | 無宗教者割合 | 全人口 |
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