帝国海軍はジェット機黎明期からその研究を行い、当時の海軍航空技術廠(空技廠)を中心にエンジン開発や機体の設計を進めていた。こうして誕生していったのが局地戦闘機
「震電」?や艦上戦闘機
「旭光」?、
「栄光」?などであった。これらの戦闘機はジェット戦闘機の特徴としての高い上昇性能や速度性能を示したものの、もともと迎撃戦闘機として開発されたためにその航続距離は艦上戦闘機としては不十分なものであった。そこで1961年、帝国海軍はその艦上戦闘機を2種類とする方針を示す。一つは航続距離を妥協し、上昇性能・高高度性能と搭載能力を重視したものであり、もう一つは大航続距離を以て艦攻に随伴し、制空戦闘を戦うものであった。前者は艦上局地戦闘機
「閃電」として開発が進められ、後者は本機、艦上戦闘機「雷光」として開発されることになる。開発はこれまでのジェット戦闘機と同じく三菱重工業が主任を担当し、その開発番号は
A10Mと附番された。中高度での制空戦闘が重視されたため、本機には低い翼面荷重による高い格闘性能と近接戦闘において有効な高連射・大携行量の機銃の搭載が求められた。また、増槽なしで2500kmの航続距離という驚異的な航続距離が求められ、三菱の設計陣はたいへん設計に苦心した。それは1930年代後半に開発された零式艦上戦闘機(零戦)を彷彿とさせるものであったという。実際、1969年に制式採用された本機は「第二の零戦」などと呼ばれ、その精強さを大きく内外にアピールした。採用後は海軍の原子力空母を中心に機種転換が進められることとなった。従来の失速速度が速いジェット戦闘機では滑走路の短い通常動力型の通常空母への着艦は難しかったが、低い翼面荷重によって低速域でも大きな揚力を確保できた本機では比較的易しいものとなっている。