そこで日本海軍が考案したドクトリンは、「漸減邀撃作戦」と呼ばれるものであった。漸減邀撃作戦とは、敵軍(ここではアメリカ海軍)が本土を出撃し、日本本土に到達するまでに各種潜水艦・航空機などによって波状攻撃を仕掛け、最終的には前段夜戦・決戦・後段夜戦(追撃戦)の3段に分けて敵艦隊を殲滅するというものである。日本海海戦の成功体験に忠実に従ったこの作戦に合わせて、日本海軍のあらゆる戦力は整備された。大航続距離を持つ陸上攻撃機と大型飛行艇、小型潜水艇を搭載して切り離しが可能な巡洋潜水艦、決戦前段で魚雷飽和攻撃を行う重雷装巡洋艦…。数々のユニークな兵器が生まれ、来る決戦の為「月月火水木金金」と形容される猛訓練に精を出した。
存在しない記憶
前進前進また前進〜日本軍の快進撃
真珠湾攻撃からミッドウェー海戦までの6か月は、まさに日本軍の連戦連勝であった。よくアメリカにとっては想定内の損害であったと言われるがそうでもない。アメリカはそもそも戦争準備が全くなっていなかった。軍拡に反対する議会を押し切って海軍拡張予算を成立させた、まさにその直後である。真珠湾で主力戦艦部隊を初動戦力から外され、虎の子の空母も珊瑚海で「レキシントン」撃沈「ヨークタウン」大破、伊26潜の雷撃によって「サラトガ」大破、「レンジャー」は大西洋のドイツ海軍に釘付けで「ワスプ」は練度不足。まともに動かせる空母は「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみで、攻撃機と戦闘機の性能と練度では日本側に遥かに劣っていた。この状態でアメリカが打った「乾坤一擲の大作戦」こそがMI迎撃作戦だったのである。これで勝利をしたことで、アメリカは「防勢」段階を脱して「防禦攻勢」に移行することができた。日本側の敗因はというと単純にドクトリンにない攻撃を実行したことである。漸減邀撃作戦はハワイやらミッドウェーやらまで主力艦を出張らせることを想定していない。日本主力艦の強さは水雷戦隊、潜水戦隊、航空戦隊と補助戦力あってこそ輝くものなのである。ましてや補助戦力だけを前線に出して勝てるわけがないのだ。純粋に航空戦のみを以て戦う空母機動部隊同士の戦いは、戦闘のイニシアチブを握る日本側にとっては采配ミスであったといえよう。日本海軍はミッドウェーを「決戦」とする認識に、どうやら欠けていたようである。
日本は確かにこの6か月、快進撃を重ねた。マレー電撃戦はドイツ軍より早い侵攻速度で東洋のジブラルタルを制圧し、南方資源地帯を空挺部隊と海上機動で苦も無く占領した。戦術次元でも戦略次元でも陸軍の戦いは成功である。しかし海軍はどうであろうか。真珠湾攻撃とマレー沖海戦は確かに敵の主力艦を壊滅せしめたが、同時に敵に航空攻撃が実に有効であることを自ら示してしまった。真珠湾の主力艦は前述の通りアメリカの戦争準備がなっていなかったことから、侵攻準備が整って日本侵攻を発動するまでは「遊兵」であるのだから、戦略的には実のところ潰しても潰さなくても大して変わらないのである。能ある鷹は爪を隠すというが、日本海軍上層部はこの航空攻撃の真の有用性に気づかぬままOKを出してしまったようである。自らが有用だと信じた作戦は徹底的に秘匿し、「甲標的」「第二空気」と意味があるんだかないんだか分からない秘匿名称をつける日本海軍にしては戦略次元での防諜が甘かったといえよう。戦術次元での防諜…?何のことですかね…ともかく、戦略的に日本海軍は勝つどころか負けているのである。あれほど縦横無尽に暴れまわった南雲機動部隊はドゥーリットル空襲もクェゼリン襲撃も防げなかったし、五航戦は珊瑚海の突破に失敗して地獄のオーエンスタンレー山脈突破戦の端緒を開いた。日本軍の快進撃というのは海軍だけをクローズアップすれば、意外と勝っていないのである。
銀翼連ねて南の前線〜「ラバウル航空隊」と消耗戦の時代
1942年8月、アメリカ第1海兵師団がソロモン諸島ガダルカナル島及びツラギ島に上陸。これを以てガダルカナル島の戦いの火蓋が切られた。マクロ視点で見るとこの戦いは当然、消耗戦に対応するだけの工業力を持たない日本が断然不利である。ルンガ飛行場が敵のものである限り日本軍はただでさえ不利な長駆侵攻に加え落とせども落とせども数の減らない敵機を毎日相手にすることになる。
結局1940年の東インド進駐と50年代のアメリカ崩壊によってアメリカと敵対する理由はなくなり、この作戦は実行されることはなかったものの、その戦術思想は確かに帝国海軍の中に息づいていた。1942年、世界大戦勃発。日本海軍はその誇る戦艦戦隊と、世界で初めて編成された空母機動部隊を基幹として欧州に派兵した。この空母機動部隊はもっぱら対地攻撃任務に使用され、遂に敵艦隊と干戈を交える機会はなかったものの、対地攻撃と対艦攻撃の兼ね合いに関する重要な戦訓も残している。そしてまた、世界大戦における日本軍を語る上で外せないのがドイツ帝国による二度にわたる日本侵攻作戦である。どちらも本土にいた聯合艦隊旗艦たる戦艦
比叡を中心とする水上艦隊と、本土の留守師団によって撃退されたが、この時に日本がとった防衛戦略は漸減邀撃作戦のそれであった。パナマ運河を突破して日本まで来寇するドイツ艦隊にハワイ、ミッドウェー、ウェーク、父島などに展開した陸攻隊で雷撃を加え、潜水艦から発進する甲標的が待ち伏せ雷撃を加え、とどめに「比叡」を基幹とする水上艦隊が追浜や館山の戦闘機隊に援護されて艦隊決戦を挑み、巡洋艦2、駆逐艦4の損害を出しつつも敵艦隊を撃滅した。完封勝利とまでは行かずも本土にいた寄せ集めの艦隊で外征海軍相手に勝利を収めた漸減邀撃作戦は、その理論が更に実戦で補強されたことになる。また、この戦いで従来の特設監視艇を用いた警戒線が不十分な結果となったので、日本海軍はレーダーの開発を更に加速させていくこととなる。