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神聖エイルシュタト公国第二首都がある地方。
約8000年ほど前、最初のアメリカ大陸先住民の移住者が現在のブラジルに定住した頃にさかのぼる。文書記録を伴う歴史は1500年のエイルシュタト人の来航をもって始まる。1500年4月22日インド洋に向かっていたエイルシュタトのペドロ・アルヴァレス・カブラルの商会船団は、未知の陸地に漂着した。カブラルが漂着したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている。しかいなかったこの地は、エイルシュタトに帰属することとされたものの、アンゴラ王国への支援などが重なり、その後暫くは開発が進むことはなかった。1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジルが発見され、ペドロ・アルヴァレス・カブラル商会に専売権が与えられた。エイルシュタト人は沿岸部に商館を建設し、1518年には貴金属や食料を求めて、エイルシュタト歴でブラジル地方初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った。
ブラジル地方には既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの先住民が居住しており先住民の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジル地方の歴史はエイルシュタト人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめてエイルシュタトと先住民の交流が始まったのはこのペドロ・アルヴァレス・カブラル商会の貿易に関わる先住民の商人達だったのである。
このように、当初エイルシュタト人はインディオの人々と貿易のみを行っていたため、開発は交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半にはも沿岸部のパウ・ブラジルが不足した為、エイルシュタトはパウ・ブラジルの栽培及び沿岸部の開発に貴金属の採掘とブラジル地方の探険、先住民の人々との友好を目的を加え、1535年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジル地方に初めてサン・ヴィセンテとピラチニンガの二つの町が建設された。
1549年に、他国からの支配、侵入に対処するためにエイルシュタトはバイーアのサルヴァドールに臨時総督府を置き、初代総督にはトメ・デ・ソウザが任命され、これによりブラジルの開発は第三段階に入った。パウ・ブラジルの不足後に貿易品として注目されたのは、鉱物の他には砂糖だった。1516年にマデイラ諸島からペルナンブーコに移植されたサトウキビ栽培は、1533年に初のエンジェニョが建設されたことを境に、エンジェニョでのエイルシュタト、インディオ、アンゴラ人を雇用した労働により北東部で栄え、一気に主要産業となっていった。また、こうして渡来したエイルシュタト人の多くはインディオやアンゴラ人と結婚などし、ムラートと呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。
こうしてブラジルは他の地方のであるゴアやマカオとは異なった商品作物の生産を軸とする開発となった。さらに、ブラジルやエイルシュタトの商人は以上の貿易品で莫大な利益を上げていた。
この時期にはエンジェニョと農村が発展し、都市の開発は少々遅れたが都市にはエイルシュタト及びアンゴラからが多くの人々住み着いた。17世紀前半にはサトウキビ農園は現在のパライーバ州からセルジペ州までの沿岸地帯一帯に拡大した。