若狭型戦艦?は、世界最大級の51cm砲を搭載したものの船体は大和型をほぼ踏襲しており、その搭載門数は6門であった。そのため、1発当たりの打撃力は大きいものであったものの公算射撃を行うギリギリの門数であったことから射撃精度が低下してしまうという問題が露呈した。そこで、51cm砲を少なくとも8門以上搭載し命中率と火力の向上を狙った新型戦艦が建造されることとなった。求められた性能はこの他に空母機動部隊に随伴できるよう速力を29ノット以上とすることや、大出力レーダーにより水平線ギリギリまで敵を探知すること、高い対空能力を持つこと、搭載機による対潜哨戒能力を持つことなどである。主砲の配置については連装砲4基というオーソドックスな案から四連装砲2基という珍妙なものまで飛び出したが、結局は大和型と同じく三連装砲3基9門を前部に2基、後部に1基配置する形でまとまった。検討の結果排水量は10万トンを超え、造船会議ではこの大きな戦艦に30ノットの機動性を付与するには原子力機関が最適であるとの結論に達した。これにより本艦級は、世界で初めて原子力推進を用いた戦艦となった。
艦名は、日本初の国産戦艦である薩摩型戦艦(初代)と、神々にゆかりのある出雲国と伊勢国から取られた。建造は1番艦「薩摩」が横須賀海軍工廠で、2番艦以降はそれぞれ神戸川崎造船所、三菱長崎造船所、石川島播磨旅順造船所で建造された。同時期に建造された
翔鶴型航空母艦(2代目)と同じく、日本に前例のない原子力艦の建造であったため、その建造には細心の注意を要し、1番艦「薩摩」が進水したのは起工から6年後の1964年のことであった。
主砲には前級に引き続いて51cm砲を搭載したため、呉海軍工廠で生産されたものが特務艦「樫野」によって運ばれた。「樫野」は51cm三連装砲の砲身と砲塔を同時に運送できるように設計されていたが、その砲身は45口径のものを想定していた為、55口径の長砲身砲を搭載した本級の砲身は船外にはみ出してしまった。