(ここより前は正史通り)
18世紀中ごろより、ゼンド朝がペルシャを治め周辺のデュラニ朝アフガニスタンやバルチスタンを征服し、
またアラビア海のポルトガル勢力を撃退し海上帝国化を推し進めた。
この際にインドの3港とタミル・セイロンを獲得した。
この勢力は18世紀末にカジャール朝に置き換わっても衰えることなく、1812〜1816には東インドも手中に納めた。
このころには国内の工業化も推し進め始めた。
また、 との戦争で大ロン・ロシアと協力し、中国地域にも2つの港や鉄道利権を獲得することが出来た。
東アフリカ植民地を獲得したのもこの頃だ。
さらに外洋に進出、マリアナ諸島など太平洋上にも進出した。
その勢力の大きさより、西アジアにおいてオスマンと双璧を成す存在とまでなりました。
しかし、ロシアの圧力が増してくると、ロシアによりペルシャは北方の領土を喪失した。
ただ、 年のロシア革命によりロシアは弱体化、ロシア帝国に反旗をあげた
中央アジア連邦とともにロシア帝国の勢力を撃退、北部アフガンと南タジクをロシア帝国より返上した。
しかしその後、ロシア革命と連鎖する形で、敗走したボリシェビキとともにペルシア共産党によりペルシャ南部やアフガン地域よりペルシャ革命が勃発、
1919年にペルシア連邦民主人民共和国が発足した。
また
中央アジア連邦建国時には、後方より中央アジアを支援し、代わりに南タジクを獲得した。
同じイデオロギーながらアゼルバイジャン問題で対立していた
オスマン社会主義人民共和国とは、
アゼルバイジャン独立を互いが承認することで関係回復を図った。
1941年の春、共産主義体制からの転換を求め、自由主義者や帝政主義者など多数の勢力が蜂起し、ペルシア内戦が起こった。
この内戦によって多数の国家から干渉を受け、内戦終結後には領土が大きく減少し、海外領の一部も失った。
内戦後は主に
中央アジア連邦と
インド共和国の支援によって復興が進められている。
なお、内戦終結後に国名が変更されたため、このページの記述はここで終了となる。