1905年以降、日露戦争でのロシア帝国の敗北を機に、西トルキスタン地方と東トルキスタン地方で別個に起きた民族自決の理念に基づく革命運動が発生した。
両者は合流し、東西トルキスタンの統一を目指して革命を成し遂げ、1921年2月、ついに独立を果たした。
建国当初は平和主義を掲げ、民族の平和と世界平和の両立を模索していたが、1930年代になってトルコ・ペルシアの両地域において社会主義政権が成立したのを受けて方針を転換し、建国時の民族主義的革命を社会主義革命だと捉え直す形でイデオロギーをすり替えると言う荒技を成し遂げた。
これは民族主義的革命の指導者の後継者であり社会主義時代の中ア連の初代書記長でもあるアブドゥラウフ・フィトラトが過去に他国で社会主義政権下での国家運営を経験した時の知識などを生かしたものであり、この革新的な転換は中ア連の柔軟な内政運営を象徴するものであると解釈できよう。
1930年代中頃、トルコ・ペルシアとの間で
バクー条約機構を立ち上げた。
1939年秋、国際情勢の複雑化などによる中ア連への大戦の影響を少しでも軽減するべく(中の人の低浮上化によるものだが)、社会主義体制を緩やかに廃止して中道民主資本主義国に戻そうという計画が承認された。「中ア連ボーナスチェスト化計画」と称し、すべての国に開かれた資源地帯をなすことを目標とするようだ。
1940年2月末、この計画は実行にうつされ、また労働者中央委員会において国家方針の変更が正式に決定された。これを機に我が国は「世界の資源庫」として歩み出すこととなる。
また同時に労働者中央委員会の解散が決まり、中ア連連邦議会が復活した。上下院から成り、定員は約260人である。
この前後で次期の大統領が選出された。あらゆる方法を用いて全ての階層から支持を取り付けて圧勝したその男の名はフォスフォル=フィストィグィと言う。彼は外交方針の大胆な転換を行うが、この性急な改革がのちに中ア連の首を締めることとなるのであった。
1940年3月末、
大日本帝国とともに中華ソビエト共和国に宣戦を布告した。この時期から中ア連は日本への接近をさらに強めていくこととなる。
この戦争によって我が国は寧夏回族自治区の保護権を獲得した。
1940年の中ごろ、ペルシア内戦を端緒とする周辺諸国のペルシア分割が発生。中ア連政府は当初これを静観し・中立の立場をとっていたが、安全保障に関する懸念になりかねないとしてイラン方面・アフガン方面に派兵。
一時イラン北東部とアフガニスタン北半を実効支配したが、対面する
インド共和国に敵対心がないことを知り撤退、最終的にイラン・アフガンのトルクメン人居住地のみを併合し、その他の地域を全て
インド共和国に割譲した。割譲した領土にはタジキスタン東部のバダフシャン地方も含まれている。
その後、残りのタジク四郡を「タジク共和国」として中ア連に再編入したが、政府はこれを中ア連とは別個の国として扱う方針を打ち立て、議会でも可決された。対外的には「タジク共和国」は中ア連の一部である、としている。現世における中国と台湾との関係にも似ている。
その後1940年10月ごろに種々の協議を行い、カイバル峠とカシミール地方を囲む4カ国の包括的同盟、
カイバル同盟が成立した。これを以てペルシア内戦に端を発したペルシア問題はひとまず収集がついたと言えるだろう。
そして1940年12月、我が国の情報統制部門が大戦犯行為を働くこととなった。事もあろうに我が国の外務省がオスマン民主国に対して機密情報を開示してしまったのである。オスマン民主国は抗議のためにこれを全国際社会に公開。連合諸国の安全保障を脅かすのみならず、他の仮想敵国に対しても拭いきれない禍根を残すこととなった。国内では当然不満も広がったが、民衆の間ではまだ
オスマン民主共和国内のトルコ人に対する同胞意識も根強く、大統領は支持率低下を免れた。つくづく幸運な男である。
1941年に始まった
第一次世界大戦?には、
自由主義連合?の一員として参戦。正規軍を大きく動かすことこそなかったものの、西アジア地域で抑圧されている諸民族の解放を手伝い、
オスマン民主共和国と敵対した。
1944年、
第一次世界大戦?が終結すると、かねてから計画されていたペルシアとの連合が推し進められ、
トルキスタン=ペルシア二重連邦が成立した。中ア連もその構成国家となった。