大航海時代
15世紀初頭ポルトガルがエンリケの指揮のもとアフリカ沿岸を沿いながら南下に成功した。
その後、バルトロメウ・ディアスの艦隊が喜望峰に到達し、ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊がインドへと到達した。ディウとマドラスを占領し、貿易都市として発展させた。16世紀には、中国澳門を獲得した。また、ポルトガル人は1543年に種子島に漂流し、日本との交易も開始した。日本に火縄銃をもたらしたのは彼らであるとされる。
コロンブスの艦隊がアメリカ大陸を発見し、マゼラン率いる艦隊は世界周航に成功した。(※マゼランは途中、原住民との戦いで命を落とした。)
この頃になると、メキシコ、南米、インド・東南アジアなどでスペインとポルトガルが覇権を握っていた。
16世紀に入るとスペイン王フェリペ二世がポルトガルの王位も兼ねることになり、ポルトガルを併合した。国名をカスティーリャ帝国と改める。
そして、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれる時代を迎える。
レパントの海戦でオスマンを破るとカトリック世界の擁護者を自負した。しかし、彼の時代にスペインに対立していたイギリスの海軍力は成長し、アルマダ海戦にて無敵艦隊が破られた。また、ネーデルラントが独立するなどしてスペインは全盛期から衰退していった。
ナポレオンの登場と南米諸国の独立
18世紀、アメリカ大陸では独立への動きが高まっていた。1775年、独立戦争が始まるとフランス、スペインは植民地軍を支援し、独立へ導いた。
1799にナポレオンが皇帝となるとヨーロッパ全体を支配し、スペインも服属した。1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが敗れナポレオンの時代が終わると、スペイン・ポルトガルの統治下であったラテンアメリカの植民地では、独立運動が拡大した。1810年には、メキシコと、シモンボリバルのもとベネズエラ、コロンビアが独立し、1820年代にはブラジルも独立した。
帝国主義の時代とカスティーリャ帝国崩壊
19世紀に入り、スペインは産業改革に乗り出した。その資金を得るためフィリピンを売却した。
1906年にカスティーリャ帝国において革命が起こり皇帝が処刑されカスティーリャ帝国が滅亡し、スペイン共和国が新たに建国された。
スペイン内戦とフランコ体制
共和制の左派と右派が農地をめぐり激しく対立した。1917年の選挙で左派が勝利すると、これに対抗してフランシスコ・フランコらが反乱軍を結成し、スペイン内戦が勃発した。
1920年、フランシスコ・フランコ将軍が、マドリード進軍を行い首都を占領。1922年に政権を掌握した。
王政復古
1960年、フランコはファシズムの限界と自らが産んだ禍根を見て、自らの政治人生の幕引きをすることとし、スペインの現状を見たうえで、君主制を敷くことを決定し、王位継承法を制定。
1962年にバルセロナ伯の長男フアン・カルロスが即位。フランコは引退のための引継ぎに移ることとなった。
一方で国王となったフアン・カルロスは強権的政治を嫌い、自らを象徴とする改訂版王位継承法を発布したあと、参議に直ちに国民議会を準備するように命じた。
また、国民議会開設までの2年間で、自らの平和理念、自由理念のもと、植民地の改革に乗り出し、植民地の将来的な独立、総督権限の即時縮小や現地政府の支援などを打ち出した。
共和体制
各国が増強を進める中で、同じく富国強兵を目指すスペインでは資源、人口などでスペインに貢献をしている邦内諸国民の影響力が強まっていた。
60年代になると、フランコ退陣による帝国主義、全体主義の反省の風潮により、植民地主義からの脱却と植民地市民の権利拡大が叫ばれ出した。
数年規模の経済の大改革を行い、植民地依存から連邦内共依存経済、各国自立経済を各分野で構築し、関税同盟を締結、すべての国で自由主義的な取引を行っている。
中南米及びガーナの諸国に大幅な自治権を議会で承認。1976年にはガーナ総督府、モロッコ総督府が廃された。
ラテンアメリカ諸国も総督府の権限縮小と行政、司法、軍事などを現地政府に移管して、80年前半の全国家独立を目指している。
また、海峡部など重要地域は、スペイン王国の直轄地から1984年までの租借地とされた。
カタルーニャでもカタルーニャ党を中心に平和的分離運動が進みカタルーニャ自治国が成立した。
それらの国でスペイン共和国(スペイン連邦)を構成している。
スペイン=アステカ戦争
1976年4月、アステカ共和国はスペイン共和国に宣戦布告。
連邦の緩やかな平和的分離をアステカは否定し、即座の分離を要求。我が国は各国の独立準備にはまだ時間はかかるとしたが、アステカの返答は宣戦布告だった。
宣戦布告後も再三対話を要求したが、非道なるアステカは対話要求を黙殺し、軍事侵攻の用意を整え続けた。
武力による即座の分離は混乱を招き、また対話を知らぬ野蛮国家の前で無防備な新興国家を独立させるのは危険であるとし、連邦総会の総意で抗戦を決定。スペインの派遣軍や独立運動で編成された諸国軍がアステカ軍と戦闘状態に陥った。