最終更新: chi_haiscute 2021年10月11日(月) 12:44:12履歴
イポーニャ(露:Япония)とは、ノヴゴロド公国海軍の戦列艦(超弩級戦艦)。ヤポーニャ、イポニャとも表記される。
Япония | |
基本情報 | |
艦名 | 扶桑→イポーニャ(Япония) |
建造所 | 呉海軍工廠 |
運用国 | 🇯🇵大日本帝国→ノヴゴロド公国 |
艦種 | 戦艦 |
艦級 | 扶桑型戦艦→イポーニャ級戦列艦 |
母港 | 呉→クロンシュタット軍港 |
要目 | |
基準排水量 | 34,700t |
35,480t(改装後) | |
36,200t(改装後) | |
全長 | 212.75m |
最大幅 | 33.08m |
喫水 | 9.69m |
主機 | 艦本式オール・ギヤードタービン4基4軸 |
BBC式タービン発電機&モーター駆動4基4軸 | |
機関出力75,000馬力 | |
機関出力200,000馬力(改装後) | |
速力 | 24.5ノット |
34ノット(改装後) | |
航続距離 | 11,600浬/16kt |
乗員 | 1,276名 |
兵装 | 45口径(毘式)35.6cm連装砲6基 |
50口径(毘式)15.2cm単装砲14基 | |
45口径(三年式)12cm連装高角砲4基 | |
九六式25mm連装機銃8基(〜1965) | |
V-28 37mm(67口径)四連装 半自動機関砲8基(1965〜) | |
GFCS | ウスタイグATs-Нк 5型(主砲用)(1960〜) |
シートゥ防空装置(1965〜) | |
レーダー | 以下1950年代より更新繰り返し |
エブリカ8対空・対水上捜索用 | |
フェリ3型対空・対水上捜索用 | |
Д-500-22 対空・対水上捜索用 | |
ウルホフ6対水上捜索用 | |
ソナー | ゼネカ-15N |
妨害装置 | チャフ発射筒6基 |
搭載機 | 九四式水上偵察機3機 後に対潜ヘリ1機 |
呉式カタパルト1機 後に撤去しヘリ甲板へ |
日露戦争後の1906年(明治39年)、イギリスが弩級戦艦ドレッドノートを就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。
本艦は第三号戦艦として1912年3月11日に呉海軍工廠で起工された。1914年3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名。伏見宮博恭王立会いのもと進水。同日附で戦艦に類別される。1915年11月8日に竣工した。3万トン級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、本艦の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている。
1923年9月1日、関東大震災が発生。9月3日、本艦は東京出身の海軍兵学校生徒41名をのせて東京へ向かった。1924年7月、高松宮宣仁親王や源田実など海軍兵学校52期生235名が卒業するに際し、摂政宮(大正天皇皇太子、即位前の昭和天皇。高松宮兄宮)が海軍兵学校卒業式に行啓する予定が組まれた。摂政宮の御召艦は扶桑(艦長米内光政大佐)に指定された。7月22日横須賀出発、24日江田島着(卒業式出席)、25日佐伯湾にて戦艦長門と陸奥による廃艦実弾射撃(薩摩、安芸)視察、27日横須賀帰投の予定であった。だが行啓直前に扶桑で腸チフス患者が発生、摂政宮行啓は中止になった。薩摩と安芸の処分は、9月上旬に摂政宮臨席のもと東京湾で行われた。
本艦はジュネーブ海軍軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた。1930年4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された。
高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造から第一次改装までは本艦も砲口が艦尾方向を向いていた。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある。
高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造から第一次改装までは本艦も砲口が艦尾方向を向いていた。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある。
1931年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の規定により、参加各国は完璧に新しい戦艦の建造を禁止された。しかし、「竣工から20年が経過した戦艦の代艦としてならば、基準排水量35,000t以下かつ主砲口径16インチ以下を満たす戦艦のみ建造が可能である」という条文が盛り込まれ、実質的な新型艦建造が許可される形となった。大日本帝国海軍はこの条文に基づき1933年から次々と老齢艦を廃艦、退役とし新型艦を建造するという措置をとった。廃艦となった艦(金剛?、榛名?、霧島?)はいずれも空母に改装されたものの、そこまで改装したところでロンドン海軍軍縮条約に規定された空母の保有制限量の上限に達した。そこで帝国海軍首脳部は、次に廃艦となり新型戦艦のための生贄となる予定だった本艦を当時友好国であったノヴゴロド公国へ売却することを決定。整備のためドック入りしていた本艦に対し耐氷改修と機関部の強化、対空兵装の増設などを行った後1935年11月、竣工からちょうど20年が経過するその日に戦艦扶桑は大日本帝国海軍を除籍され、正式にノヴゴロド公国に売却され戦列艦「Япония」としてノヴゴロド公国海軍に編入された。
- 山城?
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